2016年10月29日土曜日

【報告】お茶会1回目@ARCT事務所。

こんにちは。これからこのブログでは、ARCTネットワークチームがはじめるお茶会の模様を書いていきます。

 今現在お茶会では、 2011年3月11日に起きた東日本大震災後に、せんだい演劇工房10ーBOX にうまれた「月と太陽の広場」についての話を聞きながら、震災の語り直しをはじめています。

遅くなってしまいましたが、10月18日に行われた第一回目の模様を、簡単ではありますがレポートしたいと思います。
一回目の今回は、現在は荒井駅にあるメモリアル交流館にお勤めでいらっしゃる飯川さんが参加してくださいました。



震災後、一番最初に10‐BOX に来たのは、10-BOXでのヤギのイベント(※1)のときだった、という飯川さん。その時入った「月と太陽の広場」に関するお話を詳しくしてくれました。


一回目の今回は、主催者の斎木、中村、また事務局の阿部を含め、月と太陽の広場の立ち上げに関わったメンバーはいなかったので、「外側から見た月と太陽の広場」を語る場になりました。

僕と斉木さんは、この会の前に、「月と太陽の広場」を設置した当時の10-BOX 工房長である八巻寿文さんに話を聞いてきました。この時聞いた話なんかも、この場では話しました。

(このことについても、早いうちにまとめることができればと思っています。)


 
 
話していく中で自然と、それはやっぱり当時のことを、お互い話すことになります。


「家が地震の影響で立ち入り禁止になって、入れなくなって、3件も避難所をはしごして、2件目の途中の児童館では避難所のリーダーみたいになった。」
「家の近くは津波があって、それこそ北斗の拳の世界みたいだったのに、ガスの通ってる友人の泉区の家に風呂入りに行ったら、その帰りに「うまい鮨勘」がやってて、『なんでこっちでは温かい飯が食えるんだ』って思った。同じ仙台市内なのにこんなにも違うのかって」

東日本大震災が起きてから6年目になりますが、なかなか被災体験を被災した人同士で語ることはあまりなくて、「街中の被災の状況は初めて知るかも。」など、お互いに新鮮な発見もありました。

一度目をやってみて僕たちが気が付いたのは、『月と太陽の広場』のことを教えてもらいたい、というよりも、各々が過ごした震災の日々の中で、だれがどのように「月と太陽の広場」にかかわってきたのか、ということを聞きたいんだ、ということでした。
『月と太陽の広場』がどのような形をしていたか、みたいなことが重要なのではなく、個人の時間との接点の中でどのように存在していたのか、ということが重要なのだ、と。そしてそのほうがお互い語りやすい、ということもありました。

10-BOX開館当初の話など、いろんな方向に脱線しながら、緩やかに語り合った2時間でした。
ありがとうございました。




※1 10-BOXのヤギのイベントというのは、『復興への子どもの時間〜ヤギと癒しと〜』2011年11月18、19日のことだと思います。